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ゼロからのスタート　　~或る設計士の決断~

内より湧き出る大きな力を以てしても最初の一歩を踏みだすには至らない。
全ては実績のみ。
私の歩いてきた道を押しつける気持などありません。
ただ「人物」を知ることが、どれだけ自分自身を、成長させることが出来るか、今、何を決断すれば最善
なのかを的確に見極める事が大切だと思うのです。
　沖縄の射るような太陽の下で、汗にまみれながら白球を追いかけて、歯をくいしばり辛い練習を続けて、
プロ野球選手を夢見ていた頃に、何故かもう一つの思いが芽生えてきたのです。
その想いは、野球選手の夢を断念した時に、はっきりと見えてきました。
　「設計士になって、自分の家を造りたい・・・。」
　高校の卒業を間近に控え、大学への推薦を受けていた私は、家の経済事情を考えて、進学を
あきらめました。
そして、本土への「集団就職」の一人となり社会人としての第一歩を踏みだしたのです。
昭和４６年　東京浅草・・・。
今と比べれば、まだ華やかさが残っていましたが、東京の冷たい風は、沖縄から出てきたばかりの私には、
寒さよりも淋しさの方が、身にしみていました。
自分にまとわりつく淋しさを振り払うかのように私は、全ての事に集中しました。
中央工学校での、設計の勉強はもちろんの事、右も左も分からずに、働き始めた土地家屋調査士事務所での仕事・・・ただ無我夢中でがむしゃらに走りました。
けれど、初めての一人暮らし・・・
アパートの家賃に学費の支払いをすると、給料袋の中には、小銭が数枚残るだけでした。
一日のうち食事と言えるものは、事務所で至急される弁当だけ・・・。
淋しさを振り払う為に集中したくても、十八才の食べ盛り・・・空腹には勝てません。
学校へ行く為に借金をした私は、東京に来て、数か月で空腹苦、孤独苦、挫折苦という三重苦を、味わうことになりました。
この三重苦の中で、何をすれば良いのだろうか・・・人間というものは、腹が満ちていれば多少の事ぐらい
何とかなるものです。
沖縄の言葉の中で、「なんくるないさ」というものがあるのですが、正にその通り。
空腹さえ凌げれば他のことなんて、どうにかなるものです。
茨城県藤代町・・・廻りを見渡せば、田んぼだけが果てまで続く、典型的な農業の町です。
私は飢えを防ぐ為、勉強を続ける為、その田舎町にある建設会社で働き始めました。
利根川水系を近くに従えて、豊かな水に恵まれ、東京への通勤圏内でもあるその町は、新しいベッドタウンとして注目を集めていました。そこでの私の仕事は、ダンプの運転手、左官や大工の下働き、社長とともに
夜討ち朝掛けで、出かける営業と眠るヒマもないくらいハードな毎日でした。
それでも学校だけは、一日も休まずに通い続けたのです。
　稲穂がすれ合い、カサカサと人のざわめき様に聞こえる中を、最終電車から降りた私は遠い将来をぼんやりと考えながら、歩いたものでした。
利根川の支流が交差する藤代町は、早朝によく霧が発生します。ひどい時にはほとんど前が見えないくらいの濃い霧なのです。
この時の私は、まるでこの濃霧の中を彷徨っている様な日々を送っていました。
前が見えなくなる位の霧も、陽光の輝きが増すにつれて段々と晴れあがってきます。
しかし、私の心の中の霧は、私自身が取り除くより他にありませんでした。
寒い朝に霜柱をジャリジャリと踏みしめて、白い吐息を大きくまき散らしながら、仕事に出かけていく冬の日や、茨城の方言が分からず、ただ笑うだけの虚しさを乗り越えて、私自身の大きな夢である、
「設計士」の基本を千葉の松戸にある設計事務所で本格的に学び始めました。
実践あるのみ。
設計士としての人生を描くには、設計事務所で働きながら学び取る、それが一石二鳥いや三鳥にも四鳥にも
なりました。
先輩より少しでも早く、出社して一枚でも二枚でも多くの図面を書くことが、私の考えた最善最良の勉強法でした。私は元来せっかちな性格なのですが、その性格が幸いして、心の中でよどんでいた霧がいつの間にか無くなり、毎日、毎日図面を書くことが楽しくて仕方がなかったものでした。
　

後半へつづく・・